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神とは、なんらかのエネルギーなんじゃないかって思った

最近、宗教に興味があって宗教系の本をよく見ている。
イスラムやキリスト、仏教などについての本を見た結果

私は「神」っていうのはなんらかのエネルギーじゃないかなって思い始めている。
神=全てのエネルギー

こう考えると私の中で腑に落ちる。

神=エネルギーという結論

私は神というのは人間だけのものではない思う
全てを作った創造主ということなら、神が人間の姿なわけがない。

キリスト様は神の使い?子供?であるし、
アッラーは神のお告げを言う予言者だったと思うし、
仏教の阿弥陀様はとても偉大な人間だったように思う。

しかし、これらの宗教を信じる人間が批判し合い、宗教戦争が起こっている現実を考えると
わざわざ神が人間を争わせるだろうか?

もし、神がいるといたら、この現状の神と言われているものすらも包括した存在なはずじゃないか。

と、いうことで私は神というのはなんらかのエネルギーのその全てのことを言うんじゃないかという結論に達した。

エネルギーという意味は、なんらかの力、なんらかの働きを指しており、

それは地球全体に埋め尽くされている。
また、宇宙もエネルギーに埋め尽くされているんじゃないか。

目に見える範囲で言うと、

私もなんらかのエネルギーの集合体に過ぎず、
牛乳もコップも、テレビも携帯の電波も空気も風も雲も太陽も

全てエネルギーであるというイメージ

地球上になんらかのエネルギーがないところはない。

つまり、全てが神ってこと。

私もあなたもコップも牛乳も牛も豚も。。。全てエネルギーが集まってできたもの
つまり、神ってこと。

このように考えていくと、あらゆる宗教は正しいと思えてくる。
全ての宗教を包括することができる。

キリストは救世主、子供、使いだとするならば、
それはキリストがエネルギー(神)の集合体なのだから
キリストは神であり、神の使いであり、神の子供である。

そのキリストが私は神の使いだと言うのなら、、、そうなんだろう。

言葉もエネルギーであり、
私があなたに話しかけた時点で、それはすでに私のなんらかのエネルギーを受け取っているということになる。
私もまた、あなたを意識して話しているわけだから、あなたのエネルギーを受けている。

そして、私が例えば神だとあなたに言ったら、、、私は神なのだ。(私の中で)
あなたがそう言うならあなたのなかでその通りってことなのだ。

全てはエネルギーで構成されている。自分も地球も、宇宙も、
逆に、エネルギーのないところなんてないと思う。
つまり、エネルギー(神)からは逃げることはできない。

このように考えると至るところに神がいるように思える。
「いる」というより「ある」ってイメージか。

神はなんらかのエネルギーの全てのことを指している。

カルシウムとかそういう成分もそうだし、
私が何かを話して、誰かがその言葉を受け取る。これもエネルギー
私が走ってもエネルギーが解放される。

このように考えた時、全ての宗教に対して
「あなた達がそう考えているのならきっとそうなんだろう」

と、思える。なぜならあなたも私もエネルギー(神)の集合体なのだから

どの宗教が正しいのか?

私の神=エネルギーの総称

というのを信じることができれば
宗教というのは全て正しいということになる。

もっと言えば、善悪を超えて、正しい間違いという概念すら違う。
あなたが正しいと思えばその宗教は正しくなる。間違っていると思うのならそれは間違っている
あなたのエネルギーにおいて。ということ。

生きることと死ぬということ

神がエネルギーのことを言うのなら

生きることというのは
寝て、食べて、息を吸って吐く。

こういったものは全てエネルギーの集合体の活動であるので
エネルギーの吸収と開放

これを生きる。


死ぬことというのは、
1人のエネルギーの集合体としての活動が終わることを言う。

あなたが死ぬということはエネルギーが変化するに過ぎず、
あなたのエネルギーがなくなる。というわけではない。
だから何も怖いことはない。

しかし、怖いと思ったのなら死ぬまでは怖いはずだ。
悲しいと思うならそれは悲しいはずだ。

しかし、本で見た限り私達はすでに「死」と同じ境地をすでに体験しているらしい。
それは「生」が誕生するときということだ。

生まれる時、私達は「死」と同様の境地にいる。

生まれるのが怖くなかったのなら死ぬのも怖くない。

死ぬというのはなくなるわけではく、エネルギーが変化するだけであるから
何も怖いことはない。

祈りについて

アメリカかどこかの研究で
祈りは治療に対して効果があると化学的に立証されているらしい。

それはどんなに遠くの人であってもその効果を発揮する。

例えば、日本の私が何かケガをしたとする。
それを、アフリカにいる人達が私のことを想って「祈り」を捧げる。

すると、祈りがなかったときに比べて、治癒率が明らかに向上している

という感じ。

つまり、祈りには一定の効果がある。ということにある。

これもつまり、「そう思うのならそれが正しい」ということだ
なぜなら私も祈りを捧げている人達も神なのだから。
人間とは、神(エネルギー)が集まって構成されている集合体なのだからそう思ったらその通り。

これは見える物も見えない物もある。

私が「あっ」と叫ぶだけでなんらかのエネルギーが動いている。
私がAさんに話しかければ確実にエネルギーがAさんに変化を与えている。(それが聞いてたとしても聞いていなかったとしても)


私は死については、エネルギーの消化のようなものだと思っている。

人間がごはんや肉を食べる。これは栄養を摂取している。つまり、エネルギーを体内に取り込んでいる。
それが体内で吸収され、体内に不要なものは体の外に排出されるようになっている。

それと同じく、人が生まれ、私に関わる人の全ては私になんらかの影響を与え
生きているときには気付かない。その人の有難さに気付く。

これは私がご飯を食べて出すのと同様に、
人の死も私の心の栄養となり、そして消化されるのではないかと思っている。

私に関わった人が死ぬと、
私の中で死んだ方との思い出、言っていたことが深く胸に刺さるようになったりすることがある。

私と深く関わった時間の分だけ私の心の栄養になっているのだと思う。
これらは生きているときには気付かない。死んでしばらく経過した後、気づく。

これは食べている最中は栄養が体内に入ってるかどうかなんて気づかない。
しかし、それを食べ、月日が経過すると気づく場合もあるだろう。

そのエネルギーは私の中では生き続けているし、肉体はなくなっても
私に影響を与え続けているわけなので、エネルギーが消えたわけではないとわかる。


私はただ、この溢れんばかりのこのエネルギーにただただ感謝しようと思う。
そして、これを信じていこうと思っている。

結論としては
何を信じても良いし、信じなくても良い。
しかし、「信じる心(信心する)を持つと」いうことこそ
人間に大きなパワーを与えてくれる1要素だと感じている。
大変重要な要素であり、これを忘れてはならない。

また、エネルギーがある(神がいる)ことに感謝することを忘れちゃいけない。

そして、
あなたが正しいと思うなら全てにおいてあなたは正しいということ。
私がこれが正しいと思えばわたしにとってそれは正しく、間違っていると思えばそれは間違っているということ。

では、それを知ったうえでどう生きるか。

それは、

自信をもって今日という一日を一生懸命に生きていくということ。
これは、自分の持っているエネルギーの全て開放していくということ。
自分の持つエネルギーを使い切ると後悔しない生き方になるのではと思う。

どんなにエネルギーを使ったとしても生きている限り取り込むことはできる。
そして、死んでしまったとしてもそのあなたのエネルギーはなくなるわけでなく、
あなたの関わった人達に消化され、また新しいエネルギーに変化する。

つまりあなたのエネルギーというものは永久になくならないし、
減ることもない。増えることはあるかもしれないが。

自分のそう思うのならそう。

これが宗教についての私が思ったこと、
これなら全ての宗教も信じることができる。

神は何も教えないし、全ての所作も必要ない。
だからタメになる教えがほしいのなら、自分の良いと思った教えを信じることが一番で
それが1つじゃないとダメということもなく、信じなくてすら良い。

全てはエネルギーなのだから