mosblog

自由奔放なこのブログが一瞬でも役に立てば幸栄です

宗教の役割とはなんだったのか

昔と今の宗教の役割が違ってきている

昔の宗教というものは、政治、善悪の裁き、精神的な癒し
このような様々な役割を持っていたことがわかった。

昔の宗教と言うのは、私達が自民党などに投票する政治のような機能を持っている場合もあったり
裁判制度のような人の善悪を判断する指標、法のような役割を担った時代もある。
もちろん、宗教本来の持つ精神的な癒しや安定を手に入れるという役割もあった。

これらは非常にあいまいに扱われており、現代の日本のようにくっきりと
役割が分かれていなかったことが本を見てわかってきた。

しかし、すでにここまで科学が発達し、明らかに怪しいという宗教は淘汰され
根拠のない論を持っている宗教には結構きつい時代なんではないかと思う。

宗教は精神面に特化していく方が良い気がする

私が感じることは、
もはや、宗教に政治的権力は必要としないのではないかと思うし、
宗教に人の善悪の裁きを下す権力は必要としない。

宗教が持つべきものは慈愛の精神であり、
人々の精神を穏やかにさせ、心の平穏に努めるのを助けること。

こういったことに特化していく方が良いのではないかと感じている。

国とうまく調和しながら、なるべく金銭面をかけず、ひっそりと
信じる者の心を穏やかにしていく。

これはもうインターネットが当たり前の時代の今なら可能ではないだろうか。

もうきっとやっている新興宗教も恐らくあるのだろう。

宗教は人々に生きる指針を示す。

宗教の存在しない国は多分ないのだろうと思う。
人には宗教が必要なのだろう。

絶対に無くなるものではないし、宗教は人を強く生きさせるので
私自身も大変興味がある。

しかし、政治に参加すると別宗教との確執が生まれるだろうし
法の裁きよりも宗教の判断の方が優れているというのも
宗教の歴史をざっと見る限りどうも怪しい。

しかし、言っていることは素晴らしいと思うし、よくその時代で
そんな考えもしないことがわかったなぁと感心する。

しかし、人助けはNPO法人でもできるだろうし、

今後は宗教はより、人々の精神を支えるようなものであってほしいなと願っている。

何を信じても良いと思うし、聞けば納得するような宗教ももちろんある。

人間に宗教は必要だと私は思う。

もっともっと精度を上げてがんばってほしい。

宗教とお金と科学と芸術って本質は同じじゃないか?

宗教とお金と科学と芸術って同じものなのでは?

ふと思った。

宗教とお金(商売)と科学と芸術って根っこの方では同じじゃないかってこと。

①宗教は神を信じており、そこから理屈が展開される。

②商売にもまず、「お金の価値」というものがあって、それを信じて
そこから商売の道とか、成功の法則とかがあったりする。

③芸術にも、何が良い音楽か、何が良い絵画ってのは結局
誰かがその絵を良いものだ!言い、それを信じているし、
書く方も美の追求、テーマなど何かを信じて書くことが多いものだと思う。

④科学も仮説を信じて検証し、実証できたものを信じている。


こうして考えて見ると、世の中のシステムが宗教的システム、側面を持っていると
感じるし、本質的には「何を信じているか?」が、単に変化しただけのような気もしてくる。

と、いうことは宗教を学ぶということは、
様々な知識を入れていく上で大変重要な要素じゃないのかな

そう思う。

どのように信じられてきたのか?
なぜそれを信じるのか?

それが最初少数派でありそれが多数派に転換した理由は何か?

こういったことを知ることで
現在の私の環境に共通しているところがあるか。
その事実を生かし、応用すれば現在にも通用する何かをやることができるんじゃないか。

物や環境は変化していくものの、
人間の心理、人間の根本にあるもの

これはざっくり言えば昔と比べても変化していないんじゃないか。

腹が空けば飯を食べるし、眠かったら寝る。

心理で言えば、何を信じているかで対立し、戦ってみたり
弱い立場の人間をいじめたり、亡き者にしたりなど

本質的に「人間」は変わらないんだと思う。

本質として人間が変わらないのならば
昔のことを学ぶのはとても価値のありそうなことだ。

昔を学ぶことで今に生かすことができ、それがまた未来を作っていく。

まぁ、当たり前のことと言えばその通りだけども、
当たり前のことというのは何度確認しても良いんじゃないか。
当たり前になるくらいそれだけ大事で重要な要素があるんだろうから。

最近は、もうちょっと昔の歴史というよりも
昔の人々どのように生きて死んでいったのか。

偉大な人とかの歴史的側面からの本なんかはたくさんあるけども

昔のその環境にいた庶民達の生活や、どのようなことを思って生きてきたのか
その辺を調べて見ようと思う。

昔の人の「普通」って感覚はきっと今の「普通」じゃないだろうから
興味が沸くよね。

20代と40代ですらすでに普通の感覚が違うし、
生まれるのが数年違うだけで感覚自体は結構違うからね。

学校生活で言えば、中学1年と高校1年の開きがあるだけ
すでに周りの価値観や環境にかなりの違いがある。

これは私の体験談だ。

部活のとき、やっぱり私がいなくなってから入ってきた人達は
昔の文化、歴史を知らなかったりするし、
私の友人や部下も似たようなことを言ってる。

まぁ、基本的には愚痴だよね。
「あいつらは根性がない。価値観が違う!」みたいな笑

「喫煙者」と「非国民」

私は喫煙者だが、タバコについては本当に数十年前とガラっと
周りの価値観が違ってきていて面白い。

タバコは何も変わっていないのに
相手の反応がガラっと変わっている。

これを見てて、思うのは

「戦争」なんてものは意図も簡単に起こせるってことだね。

確か
1980年代では働く男性の80%が喫煙していたらしいです。
それが2020年の現在では30%あるかないか。20%くらいかもしれませんね。

完全に多数派から少数派へと転落したわけです。
国が本腰を入れて規制し始めたのが大きな転換期ではないでしょうか。
一気にマスコミ等もバッシングや議論が目立ってきたように感じます。

これは、
戦争する前と戦争開始時の我々の価値観のスライドと同じではないのかなと思う。

人は簡単に価値観を変化させることができ、また、攻撃的になることが可能です。
昔の日本の言葉で「非国民」という言葉がありますが

まさに数年後、またはもうすでに喫煙者は「非国民」になりつつあるってことでしょうか。

タバコがどうというよりも
その人々の考え方の変わりようを見て、これからも
いろいろ感じていけたらなぁと思いますね。

願わくば共存共栄できたらなとは思いますが、どこまで続くものやら・・・。

肌の色で差別し、専用の車両、専用の便所ができて
弾圧し、蔑み、最後には抹殺するのが人間ですからね。

願わくば、弱い者に慈悲を見せてほしいものですね。

まぁ、1980年代には逆のことがやられていたんですけどね笑
エレベーターの中でタバコ吸ってたり、店の中で歩きながらタバコとか
普通だったみたいだし、タバコから逃げることは不可能みたいな時代があっということは
忘れてはいけません。しかも、タバコを吸わない人は声を大にしてこれを言うことができなかった
これは間違いのない事実だったと思います。

非喫煙者の方には大変申し訳ないことをしてきたものだと反省しています。
その報いなのでしょうね。

あ、私は弾圧されていません!まだ笑
人間って不思議ですね。価値観一つで
殺しもできれば人助けもできるんだから。

人は何かを信じないと生きて行けない

みんな最初は親を信じる

人間は何か信じていなければ生きて行けないのだと思う。

かなり昔から神の存在はあったようだし、
信仰もあった。

私自身、振り返ってみると

まず、親の言うことは信じた。
学校の先生が教える勉強は信じた。
会社で仕事を教わる際、先輩や上司の言うことは信じた。

お金の存在は信じているし、
科学の力や科学で実証された効果というのもある一定数信じている。

神という存在もつい、この前までは半信半疑であったが、今は信じることにしている。

信じてたものが嘘なら人は迷い、不安になる。

このように人間というものは
信じなければ生きていくことは困難な生物なのだと思う。

私は
日本人には日本語が通じると信じて日本語で話すのであるし、
常識というものはある程度はみんなも知っているものだという前提で人付き合いをする。

こういった自分が信じているものが実は
全然嘘でその事実が揺らいだとしたら
私は恐らく混乱し、どうしたら良いのか途端にわからなくなるんだと思う。

そうなれば

きっと、迷い、苦しみ、不安になっていく。ってことだろう。

1+1=2である

これが本当は3だったとしたら?

すべて今まで習ってきた数学の勉強は嘘だったことにならないか?
今までの時間が全て無意味だったような気分にならないだろうか?


反対に、


何かを信じることで人間は積み上げることができる。

学問も昔からいろんなことを発見し、それが受け継がれ、
それを基礎にしてさらに新しいことが発見されたり

仏教の数千年前からの教えが形を少しずつ変えながら今でも
その伝統があったりする。

これは、多くの人がそれを信じているからできることなんだと思う。

信じることで人は安心し、積み上げることができ、自分に自信が持てる。

それは、信じている人が多ければ多い程安心できるのではないかな。


みんなが思っている常識はなんとなく自分も知って置きたいと思うし、
みんなが持っていたファミコンは自分も持ちたいと思ったし笑

信じるってことで言えば、

ネットショッピングするときのレビューなんか私は結構信じるタイプかもしれない。

実際に現物を見ることができるわけじゃないから
ほしい物があって、それを購入するときには必ずレビューを見る。

悪いことがたくさん書かれていれば買うのを控えるし
良いことがたくさんあれば少し安心する。サクラもいるので一概には言えないが・・・。

こんな感じで宗教を持つ、持たない。神を信じる、信じないということ以外でも
たくさんのことを信じて生きているわけだから

「信じるということは大切なこと。人間にとって必要不可欠」

なんだと感じている。


この「信じる」というパワー。エネルギーをうまく使えば
自分にとってかなり有利になることは間違いない。


私の場合、最近は宗教にとても興味があり、宗教に関する本を度々見ているが、
別に人生に行き詰ったから読みたくなったとかそういうことではなかった。

自分は営業マンなのでどこかの社長が書いた自伝本をたくさん見てきたが、
渋沢栄一松下幸之助などの大物の社長さんはどうも宗教を信じているっぽい
ってことがわかってきたということと、

昔から私が思っているのは

「最強の営業マンは宣教師」

という勝手なイメージにある。


物を特に販売することなく、お金を吐き出させる宗教は
営業の視点から見るとまさしく神業に近い。

宣教師が話すだけで、多額の寄付が集まり、信者が増える。

ちょっと普通に考えれば信じられないことだ。

特に昔の宣教師は命を懸けてそれこそ布教活動をしたのだから
スーパーブラック企業に勤める営業マンってことになる。

しかも販売するものは思想で目には見えないものだ。
聖書くらいは売ったのかもしれないけども、それは信じた後の話しだろう。

100万円くらいする布団や掃除機を売る人にも関心するが、
凄腕の宣教師はまさしく最強の営業マンにふさわしいんじゃないかと思っている。

宗教を学ぶことは同時に人の歴史、人の心理についても学ぶことになる。

こういったやましい気持ちから宗教に興味があっていろいろ読んだ結果、神を信じるということに至ったわけだ。

特に何かの宗教に惚れ込んで特定の宗教を信じているわけではないけど
やっぱり信じることができるものは、一つでも多い方がないよりは安心できる。

じゃあ、いろいろ信じていなかった頃と何か差はあるか?

と、言われると特にない。

まとめ


結局何が言いたいかというと、
どんな宗教にせよ。どんなことにせよ。

「信じる心は大切!生きる上で重要な要素」

「時に、信じる心は自分の力以上の何かが発揮される」

ということ。

もちろん、危険な思想や間違ったこと、嘘なんかを盲信するとひどい目に会う。

騙されないように気を付けながら
まずは自分が信じたことをしっかりと信じてやっていこう!

マルチとか怪しい新興宗教には近寄らないように!

うまく「信じる」っていう自分が持っているエネルギーを使って行こう!って話し

語りつくされた「幸せ」について書いてみようかな

幸せはただただあるもの

いろんな人が語りつくしている幸せとは何かについて書いてみよう。

「幸せ」とは何か?
まずは、間違っているかどうかも怪しい私の文章を見るよりも
WIKIで調べて見るのが手っ取り早い。

幸福 - Wikipedia


幸せってなんだろうか。

私は仕事で辛い時もあれば逃げたくなる衝動が定期的に襲い掛かってくる。
家族に対して腹が立つときもある。

しかし、営業の仕事をやっていてよかったと思えるときもあるし、
家族がいて本当によかったと思うことももちろんある。

基本はそんなことすら考えずに日々別なことを考えながら淡々と生活してる感じかな。

元々、そんなに不幸だな自分・・・みたいな発想はなかったので
幸せかどうか考えたときは大体幸せだったような気がする。

そして、最近考えているのは。

幸せってのは過去形なら感じやすい。

あの時は幸せだったなぁ・・・。というのは感じやすいってこと。
逆に、今、幸せというのは感じにくい。

幸せが当たり前ってことに気付かない人生

なぜ、今の自分が幸せだと思いにくいかというと、
当たり前のことが当たり前に日々、淡々と流れているから。


幸せというものは「ただあるもの」なので
問題はそれに気づくかどうかという差なんだよね。

例えばお金がなくて来月の支払いに困っている時や
いじめられていたとしてもそれは感じることができる。

少なくてもこれを見てる人は幸せ以外あり得ない。

なぜか?

息を吸って吐いてみてほしい。あなたは今、生きている。

人は息が吸えなくなれば簡単にいなくなる。

生きているのは当たり前じゃない。

今、生きるのに必要な食事があり
今、生きるのに必要な睡眠ができ
今、生きるのに必要な住居、衣類がある。

さらにさらに、

インターネットに繋がっており
生きるために必ずしも必要のない情報を今見てる。

友人が1人くらいいるかもしれないし、親も生きてるかもしれない。
気にかけてくれている人がいるかもしれない。

体だっていくつかのコンプレックスがあるかもしれないが、
すぐに生死に直結するような重大な病気もない。

もう、今、生きるのに必要なものっているのは全部すでにあるってこと。

明日ご飯が食べることができないかもしれない。
明日息を吸うことができなくなるかもしれない。
明日寝れなくなる程のことが起こるかもしれない。


それらは全て明日、考えたらいい。

今は今の幸せを感じ、今があることに感謝すればいい

たったそれだけのことなんだよね。

でも、難しい。

幸せに感じないのは心のゆとりがなくなっているから

そんなことって結構みんなわかってるんだよね。
でも、難しいのは

「心のゆとりがなくなっているから」

だと思う。

心のゆとり、心の余裕がないとそういうことに気付きにくくなり、
意識的にそれどころではないって感じになる。


そういう時は一旦、

一服すると良い。

お茶を飲んでため息をついて見る。
軽くストレッチでもしてみる。
深呼吸を2|3分してみる。

スキマの時間を使って一度、

行動や思考することを止めて見よう!

そして、全然違うことに意識を向けよう。

外にでて、空を見上げることを忘れていないか?
遠くの景色でも一度ゆっくり見ることを忘れていないか?
忙しさや、現状の希望のなさを理由に
自分がこじんまりとしていないか?


人間にはいろんな体の部分で様々なことを感じることができる。
一度ネガティブな考えやあくせく動くの止めて心の休息をしてみて下さい。

そうすれば一時的にでも幸せを感じ取れる日があると思う。

幸せは気付くものだから、「幸せ~♪」なんて気分はずっと続くことはなかったとしても
ひとときでも良いんだと思う。

その一瞬一瞬の積み重ねが

「幸せな人生だった」

と、思わせてくれると思ってる。

だからどうか

幸せになろう
幸せを掴み取ろう

なんて思わないでほしい。

あなたはもう幸せなはずだから。

使命・天命を求めている人。死ぬ前に何か残したいと考えている方へ

数日の前の自分も思っていたのが

何か私に天命や生きているうちにやるべき使命があり、何かやるべきなんじゃないかってこと。
また、死ぬ前に何かを残したいという想い。

こういったことを考え、悩んでいた。

しかし、わかったことがある。

こういった使命に感じること、何を残すべきかがわかることって

「恋愛」
と同じようなもんじゃないかってこと。

考えた結果、求めて得られるものじゃない

考えに考え、悩みに悩んだ結果。

こういったものは得ようと思って得られるものではなく、
考えてひらめくことでもないような気がする。

きっと、過去の自分を思い返したとき、すでにやっていた。。。とか

何かのキッカケでそれをやろうと強く思った・・・とかそういった「縁」で
流れとして結果的にできるものであって

こちらから考えてやれるようなもんではない。

私が現在結婚しているカミさんもそうだった。

彼女がほしいほしいと思っている間はまったく彼女が私はできなかった。

しかし、数年が経ち、もう結婚は諦めようと諦めていた矢先に
後輩の結婚式の飲み会である女性に会い、紹介してもらったのがキッカケだ。


世の中の縁は本当に偶然の連続だと感じている。
だから、のんびりそういう考えを忘れて今のやるべきことを一生懸命やっていれば
きっとあちらからそれはやってくるに違いない。

理想は過去を振り返った時、すでにもうそれはやっていたってこと

一番の理想は、日々一生懸命生きて、ふと自分の生きてきた道を振り返ってきたとき
すでにそれはもうずっとやっていることだったり、すぐそばにあった。なんてパターンだ。

一番ありそうでこれが最も理想的だと思う。

貧しい国に行って井戸を掘ったり、学校を建てたりしている人達もきっと
自分がそうなりたいと思って行って行動している人って少ないんじゃないかな。

たまたまそれを知った時に大きな衝撃を受けて、衝動的に決意してるんだと思う。
その衝撃がないってことはまだその時ではないってことだから、気長に待とう。

30歳を過ぎたらもうあまり人の目は気にならない。

自分の好きなことをやっていこう。

もしかしたら一番嫌な仕事が天命になる場合もあると思う。
何も得意なことだけが天職の道とも限らないのが世の中だ。

一日一日を大事に生きるのみ。
それに尽きる。

神とは、なんらかのエネルギーなんじゃないかって思った

最近、宗教に興味があって宗教系の本をよく見ている。
イスラムやキリスト、仏教などについての本を見た結果

私は「神」っていうのはなんらかのエネルギーじゃないかなって思い始めている。
神=全てのエネルギー

こう考えると私の中で腑に落ちる。

神=エネルギーという結論

私は神というのは人間だけのものではない思う
全てを作った創造主ということなら、神が人間の姿なわけがない。

キリスト様は神の使い?子供?であるし、
アッラーは神のお告げを言う予言者だったと思うし、
仏教の阿弥陀様はとても偉大な人間だったように思う。

しかし、これらの宗教を信じる人間が批判し合い、宗教戦争が起こっている現実を考えると
わざわざ神が人間を争わせるだろうか?

もし、神がいるといたら、この現状の神と言われているものすらも包括した存在なはずじゃないか。

と、いうことで私は神というのはなんらかのエネルギーのその全てのことを言うんじゃないかという結論に達した。

エネルギーという意味は、なんらかの力、なんらかの働きを指しており、

それは地球全体に埋め尽くされている。
また、宇宙もエネルギーに埋め尽くされているんじゃないか。

目に見える範囲で言うと、

私もなんらかのエネルギーの集合体に過ぎず、
牛乳もコップも、テレビも携帯の電波も空気も風も雲も太陽も

全てエネルギーであるというイメージ

地球上になんらかのエネルギーがないところはない。

つまり、全てが神ってこと。

私もあなたもコップも牛乳も牛も豚も。。。全てエネルギーが集まってできたもの
つまり、神ってこと。

このように考えていくと、あらゆる宗教は正しいと思えてくる。
全ての宗教を包括することができる。

キリストは救世主、子供、使いだとするならば、
それはキリストがエネルギー(神)の集合体なのだから
キリストは神であり、神の使いであり、神の子供である。

そのキリストが私は神の使いだと言うのなら、、、そうなんだろう。

言葉もエネルギーであり、
私があなたに話しかけた時点で、それはすでに私のなんらかのエネルギーを受け取っているということになる。
私もまた、あなたを意識して話しているわけだから、あなたのエネルギーを受けている。

そして、私が例えば神だとあなたに言ったら、、、私は神なのだ。(私の中で)
あなたがそう言うならあなたのなかでその通りってことなのだ。

全てはエネルギーで構成されている。自分も地球も、宇宙も、
逆に、エネルギーのないところなんてないと思う。
つまり、エネルギー(神)からは逃げることはできない。

このように考えると至るところに神がいるように思える。
「いる」というより「ある」ってイメージか。

神はなんらかのエネルギーの全てのことを指している。

カルシウムとかそういう成分もそうだし、
私が何かを話して、誰かがその言葉を受け取る。これもエネルギー
私が走ってもエネルギーが解放される。

このように考えた時、全ての宗教に対して
「あなた達がそう考えているのならきっとそうなんだろう」

と、思える。なぜならあなたも私もエネルギー(神)の集合体なのだから

どの宗教が正しいのか?

私の神=エネルギーの総称

というのを信じることができれば
宗教というのは全て正しいということになる。

もっと言えば、善悪を超えて、正しい間違いという概念すら違う。
あなたが正しいと思えばその宗教は正しくなる。間違っていると思うのならそれは間違っている
あなたのエネルギーにおいて。ということ。

生きることと死ぬということ

神がエネルギーのことを言うのなら

生きることというのは
寝て、食べて、息を吸って吐く。

こういったものは全てエネルギーの集合体の活動であるので
エネルギーの吸収と開放

これを生きる。


死ぬことというのは、
1人のエネルギーの集合体としての活動が終わることを言う。

あなたが死ぬということはエネルギーが変化するに過ぎず、
あなたのエネルギーがなくなる。というわけではない。
だから何も怖いことはない。

しかし、怖いと思ったのなら死ぬまでは怖いはずだ。
悲しいと思うならそれは悲しいはずだ。

しかし、本で見た限り私達はすでに「死」と同じ境地をすでに体験しているらしい。
それは「生」が誕生するときということだ。

生まれる時、私達は「死」と同様の境地にいる。

生まれるのが怖くなかったのなら死ぬのも怖くない。

死ぬというのはなくなるわけではく、エネルギーが変化するだけであるから
何も怖いことはない。

祈りについて

アメリカかどこかの研究で
祈りは治療に対して効果があると化学的に立証されているらしい。

それはどんなに遠くの人であってもその効果を発揮する。

例えば、日本の私が何かケガをしたとする。
それを、アフリカにいる人達が私のことを想って「祈り」を捧げる。

すると、祈りがなかったときに比べて、治癒率が明らかに向上している

という感じ。

つまり、祈りには一定の効果がある。ということにある。

これもつまり、「そう思うのならそれが正しい」ということだ
なぜなら私も祈りを捧げている人達も神なのだから。
人間とは、神(エネルギー)が集まって構成されている集合体なのだからそう思ったらその通り。

これは見える物も見えない物もある。

私が「あっ」と叫ぶだけでなんらかのエネルギーが動いている。
私がAさんに話しかければ確実にエネルギーがAさんに変化を与えている。(それが聞いてたとしても聞いていなかったとしても)


私は死については、エネルギーの消化のようなものだと思っている。

人間がごはんや肉を食べる。これは栄養を摂取している。つまり、エネルギーを体内に取り込んでいる。
それが体内で吸収され、体内に不要なものは体の外に排出されるようになっている。

それと同じく、人が生まれ、私に関わる人の全ては私になんらかの影響を与え
生きているときには気付かない。その人の有難さに気付く。

これは私がご飯を食べて出すのと同様に、
人の死も私の心の栄養となり、そして消化されるのではないかと思っている。

私に関わった人が死ぬと、
私の中で死んだ方との思い出、言っていたことが深く胸に刺さるようになったりすることがある。

私と深く関わった時間の分だけ私の心の栄養になっているのだと思う。
これらは生きているときには気付かない。死んでしばらく経過した後、気づく。

これは食べている最中は栄養が体内に入ってるかどうかなんて気づかない。
しかし、それを食べ、月日が経過すると気づく場合もあるだろう。

そのエネルギーは私の中では生き続けているし、肉体はなくなっても
私に影響を与え続けているわけなので、エネルギーが消えたわけではないとわかる。


私はただ、この溢れんばかりのこのエネルギーにただただ感謝しようと思う。
そして、これを信じていこうと思っている。

結論としては
何を信じても良いし、信じなくても良い。
しかし、「信じる心(信心する)を持つと」いうことこそ
人間に大きなパワーを与えてくれる1要素だと感じている。
大変重要な要素であり、これを忘れてはならない。

また、エネルギーがある(神がいる)ことに感謝することを忘れちゃいけない。

そして、
あなたが正しいと思うなら全てにおいてあなたは正しいということ。
私がこれが正しいと思えばわたしにとってそれは正しく、間違っていると思えばそれは間違っているということ。

では、それを知ったうえでどう生きるか。

それは、

自信をもって今日という一日を一生懸命に生きていくということ。
これは、自分の持っているエネルギーの全て開放していくということ。
自分の持つエネルギーを使い切ると後悔しない生き方になるのではと思う。

どんなにエネルギーを使ったとしても生きている限り取り込むことはできる。
そして、死んでしまったとしてもそのあなたのエネルギーはなくなるわけでなく、
あなたの関わった人達に消化され、また新しいエネルギーに変化する。

つまりあなたのエネルギーというものは永久になくならないし、
減ることもない。増えることはあるかもしれないが。

自分のそう思うのならそう。

これが宗教についての私が思ったこと、
これなら全ての宗教も信じることができる。

神は何も教えないし、全ての所作も必要ない。
だからタメになる教えがほしいのなら、自分の良いと思った教えを信じることが一番で
それが1つじゃないとダメということもなく、信じなくてすら良い。

全てはエネルギーなのだから

信じる心が大事!じゃない?って話

これまで私は宗教に少々の興味があって、いろんな宗教に関する本を見てきた。
と、言っても学者ではないし、どこかの宗教に入りたくなるほどの信者でもない。


世の中には本当にいろんな宗教がある。

今も昔も私は宗教には俗にいう人並みの気持ち悪さを持っている。

私の周りの友達も、宗教と聞くと
「うさんくさい。嘘くさい」
「キモい」
「話をされるとドン引きする」

こんな感じだ。
別に宗教を特別視して嫌っているワケではないんだけども、興味がないというか
何を信じたら良いのかわかんないって感じなのかもしれない。

しかし、
正月にはちゃんと初詣はやっているし、誰かが行けば葬式にだって行き、お坊さんの有難いお経を聞き、
クリスマスにはプレゼントを買ってケーキを食べ、最近流行している断食って健康にいいのかな?なんて思っている。

これらは全て宗教な儀式であり、ほとんど無意識「そういうもんだ」ってことで行っているにすぎない。

このような様々な宗教にお世話になっているにも関わらず、その宗教については何も知らないというのは
ちょっと失礼な気がしたので、どんなもんかちょっと調べて見よう。程度の動機だったはずだ。

いろんな宗教はあるものの・・・どれが一番いいの?

戦争に負けてから日本の神道もすっかり影を潜めてしまったように思えるが、
未だに神社は倒産せずに神主さんや巫女さんは存在しているのを見ると、必要に違いない。

世の中に必要のないものはなくなるのが世の常だから、存在するってことは一定数必要なのだろう。

調べてみると、イスラムやキリスト、仏教などなど、様々な宗教は聞けばなるほど!となり
なんだか悪いことを言っているようにはあまり聞こえない。

多くの人が信仰している宗教と言うのは、決して悪い物ではないのだろうと思う。
実際に本を読んでもとてもタメになるし、学校では教えてもらえないようなことが
書かれており、人生の見本というか勉強になっているように感じる。


問題はここから・・・で

やっぱり宗教は怪しい?

じゃあその宗教を100%信用し、そのシキタリに従って信心していくかというと
それはまったく違う。

やっぱり怪しい部分もあるし、
何よりなんだかんだでお金を払わないとダメ・・・という空気感がすごい笑

仏教にしても儀式にはお金がかかるし、キリスト教だって寄付を募る。

もちろん宗教の活動にはお金がかかるのは理解しているつもりだ。
なぜなら現代宗教はほとんどビジネスだからだ。

商売としての宗教と、本当に悩める人にとっての学問的な宗教は、ちょっと分野が違うと言うか
根本的に目指しているところも違ってくるような気がしている。

宗教と言うのはほとんど、人を救うような感じになっていたり、悩みを解決できる方向に導いたり
良い教えみたいなものがある。経典っていうのかな?

でも、宗教に押し付けるような代物ではないように思っているし、
お金なんて1円たりとも必要なことなどないだろうと感じている。

神様の問題もこれまた深く調べていくととてつもなく厳密で激しい論争があり、
そういったことの専門的な学問まであるくらいだから到底私のようなアホゥには知る由もない。

しかしながら、私は

神様がいるとしたら、現在の宗教すらも全てを包括するような感じじゃないとダメなんじゃないか?
と思っている。

イスラムvsキリストみたいな神様を信じる者達がぶつかって殺し合いをするような感じは
ちょっと何か違うような気がする。

かといって仏教についても自力と他力があるけども、阿弥陀様ってのは元々王様か何かで
みんなを救うために有難い教えを残し、悟りを開いて旅だった人みたいな感じ。

これはつまり悟りを開いた人間に対して拝む。崇拝するってことだから
これを100%信じて仏教の道に入ろうとは思わない。

なんだったら今ある宗教のさらに上に立つ神様みたいなもんを作ったらいいんじゃないかと
思うけど、恐らくそれも無理なんだろう。

私自身、何が正しい宗教かなんてわからないし、興味もない。

わかってきたのは「信じる心って大事!」

それより、いろいろ自分なりに本を読んでわかったのは

「信心(信じる心)」

これがすごく大事。

だから何を信じるかというのも人の道を外さないという意味では重要ではあるけども
とりあえず危険な発想を持たない宗教であればどれでもいいんじゃないかなと思っている。

それよりも信心こそが人間に活力、パワーを与えているような気がする。

企業が大きくなるときも、例えば部下は社長の志に惚れて、
「この人についていけば間違いない!」みたいな感じになってがむしゃらに働く。

社長もそれに応えてその部下を十二分に使って様々なビジネスを展開し、企業が膨らむ。
このような現象は高度成長期にはよくある話し。

その社長さん達は結構、仏教や神棚飾ってお祈りしてたりお経上げてたりする。

だから重要なのは「信心を持つこと」なのだと私は思う。

もちろん良くないものを信心してしまうと
多分良くない方向に行くのだろうから十分に注意は必要だとは思うけど

何かを信じるということは善悪の問題ではなく

エネルギーがある?力が湧く?とてつもないパワーになる?

そんな感じ。

それはきっと無神論者が多い日本であっても、ちゃんと発展していってるのは

「誰かが何かを信じて行動しているから。」

に違いない。

何かを信用する、信じるというのは
人間の力の根本ではないかな。そう思う。

だからこれといった根拠なく

「とにかく騙されたと思って信心しなさい!」
「信じる者は救われる」

この類の言葉は半分賛成で、半分は反対かな笑

でも、そう言われて素直に信じて幸せなんだったらそれでいいじゃない。

他人の信じる心を奪おう、変化させようなんて思わないかなぁ。

信じた結果、騙されたり、幸せになっていないのなら
また違う自分の正しいと思ったものを信じれば良いんじゃないかな。

そして、自分が信じたもののことをよく学べばいいと思う。

という、

宗教そのものよりも信仰心こそ大事じゃないかなー
って思ったので書き残しておく。